2014年6月29日

【雑記】”脱法”薬物と”違法”薬物

 まずは,下記に引用した記事を読んでみてください。
 
東京・池袋の繁華街で、脱法ハーブを吸った男が運転する車が暴走した事件を受けて、警察庁は、「脱法」という呼び名が危険性がないような誤解を与えかねないとして、危険性の認識を高めるために脱法ハーブなど脱法ドラッグの呼び名の変更について、警察庁のホームページなどで意見を募集することを決めました。
 今月24日、東京・池袋の繁華街で、車が歩道を暴走して歩行者を次々とはね、1人が死亡、7人が重軽傷を負った事件では、逮捕された男が脱法ハーブを吸って車を暴走させた疑いが持たれています。この事件を受けて、警察庁は、「脱法」というのは危険性がないような誤解を与えかねないとして、危険性の認識を高めるために脱法ハーブなど脱法ドラッグの呼び名の変更について、警察庁のホームページなどで、意見を募集することを決めました。意見の募集は、準備が整いしだい、できるだけ早く行うことにしていて、名称の変更によって脱法ドラッグの乱用の歯止めにつなげたいとしています。これについて古屋国家公安委員長は、27日の閣議のあとの記者会見で、「脱法ドラッグは人体にも大きな影響がある危険な薬物だということをしっかり認識してもらう取り組みにしたい」と述べています。引用元:NHKニュース 「脱法ハーブ」 呼称変更で意見募集へ 2014/6/28 4:44
          (http://www3.nhk.or.jp/news/html/20140628/k10015575571000.html)
  
1.”脱法”とは?
 
 引用したニュースをまとめてみると,

 「脱法」という言葉が,危険性を和らげるニュアンスを含んでいることが,このような薬物の乱用を引き起こして,結果として重大な事件・事故を発生させちゃってるから,「脱法」っていう言葉にかわる表現を募集して使うことによって,このような薬物が危険であることをきちんと認識してもらおう!!

 といったところでしょうか。
 
 
 報道機関が「脱法」と表現する場合,この「脱法」には,”「違法」じゃないけど,効果とかをみると違法っぽいなにか”といった意味合いがこめられています。
 
 つまり,「うまいこと法の抜け穴を使った行為」という感じです。

 ここでいう,「法」とは,基本的には,刑罰を科すための法律とか規則(刑罰法規)のことをいいます。

 そのため,もうちょっと正確に言うと,「刑罰を科されないように,うまいこと法の抜け穴を利用した行為」とでも表現できるでしょう。
 刑罰は科されないけど,一般的に見ると,刑罰が科される対象と同じような効果を持ってる行為だということができます。
 

2.”脱法”と”違法”と”合法”

 「合法」とは,一般的にも法律上も刑罰を科されないと判断されるような行為のことを差します。

 これに対して,「違法」とは,一般的にも法律上も刑罰を科されると判断されるような行為のことを差します。

 そのため,「脱法」は,「合法」と「違法」の中間地点にある行為であるということがわかります。

 自分のしようとする(あるいは,した)行為に対して,刑罰が科されるか科されないか,ということは,わたしたちが日々生活を送る上でとっても重要であり,その範囲が不明確だと,常に「自分の行為に刑罰が科せられるんじゃないのか?」といった恐怖のうちに過ごさなければならない事になってしまうので,できる限り,刑罰を科する範囲を明確化しなければならず,わたしたちがその範囲を知ることができるようにされなければなりません。

 このことを,「罪刑法定主義」における「明確性の原則」といい,どんな刑罰法規に対しても要求されているものであるといえます。

「明確性の原則」に従って,刑罰を科すことができる範囲を明らかにして,その範囲に属する行為のことを「違法」,属さない行為のことを「合法」と呼びます。

 このようなことから,本来,わたしたちがする行為は全て「違法」か「合法」かに分類されなければいけないはずであるのに,なぜか,その中間地点の行為を表現する「脱法」という言葉がよく使われてます。

 そもそも,「脱法」は,刑罰を科させる対象の行為でないので,「合法」にカテゴライズされますが,
どうしてわざわざ,「脱法」という言葉を使うのでしょうか?

 その答えは,法律の規定が,一般的な行為に対する評価と離れてしまっているというところにあります。


3.「刑罰を科すべき行為」と「刑罰を科す行為」

 刑罰を科すためには,必ず法律の規定が必要です。

 その理由は,刑罰という制度そのものが,わたしたちの生命や身体・財産を奪う性質を持っているので,みんなで決めたルールとして法律によって定めて,反論させないようにしなければならないためです。

 「どのような行為に刑罰を科するか」ということ(「刑罰を科すべき行為」)の基準は,実は,人それぞれで,共通したルールなんてそもそも作ることはできません。

 しかし,共通したルールを作っておかないと,みんながみんな,いつ誰にどのような形で自分の持っている生命や財産を奪われるかわからくて,困ります。
 このような状態のことを「自然状態」といいます。

 自然状態のままでは,人々は安心して日々の生活を送ることは難しいので,無理やり,共通のルールを作って,みんながそれに従うことにしたのです。

 そのような共通のルールを作るためには,全員の納得が得られることは不可能なので,そのルールに従うべき人全員が参加して,より大勢の人の納得の得られる形で決められなければなりません(民主主義)。
 
 しかし,ルールに従うべき人全員が参加して議論をすることは,時間的にも場所的にも不可能に近いので,仕方なく,それぞれの立場の人たちが,代表を選んで,その代表たちが議論して,ルールを作ることにしました(代表制民主主義)。

 このように,共通のルールを定めるために集まったのが,日本で言う「国会」であり,「国会」によって作られた,全国民をその対象とするルールのことを,「法律」といいます。

  
 「法律」としての地位を与えられたルールのうち,刑罰についてのものは,「刑罰を科す行為」として,広く全国民に及ぶことになります。

 しかし,先ほどもいったとおり,人によって「刑罰を科すべき行為」の基準は違ってくるので,おのずと,「刑罰を科する行為」と「刑罰を科すべき行為」に差が生じてしまうのです。

 この「刑罰を科する行為」と「刑罰を科すべき行為」の間に生まれた差から,「脱法」という言葉が使われるようになったのです。

 まさに,「脱法」は,「法の抜け穴を利用した行為である」といえるのです。


4.「刑罰を科する行為」の実情と「脱法」の不可避性

 しかし,「法律」として「刑罰を科する行為」を設定するには,時間も労力もかかるので,なかなか難しいのです。
 
 そのため,急速に発展する分野に対しては,「法律」による「刑罰を科する行為」の設定が追いつかず,「刑罰を科する行為」として設定するとまた新しい行為を生み出してきて,”いたちごっこになってしまうのが現状です。

 そのため,「脱法」という言葉がなくなることはないでしょう。


5.打開策としての「脱法」という言葉の変更
    
    以上見てきたように,法律という制度によって,刑罰を科するという原則が採られている限りは,「脱法」という行為は常に人々に付き纏うものであるということがいえます。

    そのため,当局は,『「脱法」という言葉があるから,それが社会からの非難を逃れる口実になってるんだ!!』→『だったら「脱法」という言葉を使えないようにしちゃえばいいんだ!!』という発想をもって,「脱法」という言葉を使わせないために,新たな言葉を募集するに至ったのでしょう。

    「脱法」という言葉を使わせないようにしたら,  人々はこれまで「脱法」に該当していた行為をしなくなるのでしょうか?

    この点については,評価が分かれるところで,そのように考える人もいれば,そうはいかないだろうと考える人もいるところでしょう。

    私見としては,いくら「脱法」という言葉を使わなくなったからといって,それが直ちにその言葉にカテゴライズされる行為の実体を根絶させるものではないといえるので,実はそのような施策は意味をなさないのではないかと考えます。

   一方で,「脱法」という言葉につられて人々がそのような行為に出る可能性があることもまた事実なので,このような施策がまったくの無意味であるということまでは言えないでしょう。

   人体に影響を及ぼす薬物に関する場面においては,その人の意思とは関係なく行為に及んでしまうことが多い(常用している場合には,依存症状から新たにそのような薬物を買ったり使用したりしてしまうことがある)ため,いずれの考え方によっても単なる言葉の問題として捉えるのではなく,もっと広い視野をもって『人体に影響を及ぼす薬物の不当な流通・使用をどのように防ぐべきか』といった対策を採らなければならないでしょう。

0 件のコメント:

コメントを投稿