2013年8月31日

重判24年度版―憲法2「裁判員制度の合憲性」

【科目】
重判24年度版―憲法2「裁判員制度の合憲性」

【判決日時・種別】
最大判平成23年11月16日

【収載判例集】
刑集65巻8号1285頁
判時2136号3頁
判タ1362号62頁

【事実の概要】
(1)被告人甲は、覚せい剤取締法および関税法違反で起訴された。
(2)現行裁判員制度の下においては、「死刑又は無期の懲役若しくは禁錮に当たる罪に係る事件」(裁判員法2条1項1号)と「裁判所法第二十六条第二項第二号に掲げる事件であって、故意の犯罪行為により被害者を死亡させた罪に係るもの(前号に該当するものを除く )」(同2号)に該当する事件を、裁判員裁判の対象としているところ、本件においては、覚せい剤の営利目的輸入行為(覚せい剤取締法41条2項)の法定刑に無期懲役が含まれることから、裁判員裁判の対象となった。
(3)一審は、甲を懲役9年及び罰金刑に処した。
(4)甲は、事実誤認・量刑不当の主張とともに、裁判員裁判制度が違憲であるとして高裁に控訴した。
(5)控訴審が甲の控訴を棄却したため、甲は上告の申立てを行った
裁判員裁判の部分についての上告申立ての理由として、甲は、
①憲法上、所謂「国民の司法参加」を予定した規定が置かれていないこと
②職業裁判官以外の者も構成員となる裁判員制度は、憲法32条(裁判を受ける権利),37条1項(刑事裁判の公開及び公平・迅速な裁判の保障),76条1項(司法権),31条(罪刑法定主義),80条1項(下級審裁判官の身分)に違反すること
③裁判員裁判制度は、裁判員の判断が裁判官における判断に大きく影響を与え、これに拘束されることから、裁判官の独立につき定めた憲法76条3項に違反すること
④裁判員を含む裁判体は、法の予定した通常裁判とは異なるため、特別裁判所設置の禁止を定めた憲法76条2項に違反すること
⑤裁判員制度の運用上、特段の理由なき場合を除き国民が裁判員になる義務を免れ得ないことは、国民の意に反する苦役を義務とすることになるため、憲法18条後段に違反すること
を挙げた。

【判旨】
上告棄却

1)理由①について
 国民の司法参加と刑事裁判制度は「十分調和させることが可能であり、……(裁判員制度を始とした所謂「国民の司法参加」が)禁じられていると解すべき理由」がない。
 ↓そのため
 『国民の司法参加』の違憲如何については、「具体的に設けられた制度が、適正な刑事裁判を実現するための諸原則に抵触するか否か」において決せられるべきである。
↓つまり
 「憲法は、一般的には国民の司法参加を許容しており」、その手段として適正な刑事裁判の実現のための諸原則に抵触しない程度で、「陪審制とするか参審制とするかを含め、その内容を立法政策に委ねている」と解することができる

2)理由②について
 1)を前提として、裁判員の負う義務とその内容等を鑑みると、「必ずしもあらかじめ法律的な知識、経験を有することが不可欠な事項ではな」く、また、裁判員裁判制度の対象となる審理においては、「裁判長は、裁判員がその職責を十分に果たすことができるように考慮しなければならないとされて」いる。
↓つまり
 裁判員制度は、「(裁判員の)様々な視点や感覚を反映させつつ、裁判官との協議を通じて良識ある結論に達すること」を目的とするものである。
↓また
 憲法上の刑事裁判の適正のための諸原則の保障は、職業裁判官により確保されていると認められる。
↓なぜなら
 裁判員裁判対象事件における裁判体では、職業裁判官は「身分保障の下、独立で職権を行使することが保障され」ているためである。
↓諸点を鑑みると
憲法31条,32条,37条1項,76条1項,80条1項違反をいう所論は理由がない

3)理由③について
 憲法が「国民の司法参加を許容している」と解する以上、立法政策として制度化された裁判員制度については、「憲法に適合する法律に拘束される結果」としての結論に従うことになるから、「同項(憲法76条3項)違反との評価を受ける余地はない」  

4)理由④について
 「裁判員制度による裁判体は、地方裁判所に属」し、上訴手段が残されていることから特別裁判所には当たらない

5)理由⑤について
 「司法権の行使に対する国民の参加という点で参政権と同様の権限を国民に付与するものであ」るし、「辞退に関し柔軟な制度を設けて」いることに「加えて、出頭した裁判員又は裁判員候補者に対する旅費、日当等の支給により負担を軽減するための経済的措置が講じられている」ことに鑑みると、「これを「苦役」ということは必ずしも適切ではない


【まとめ】
 裁判員制度をはじめとする、国民が司法権に関与する権利として保障されるべき、所謂「国民の司法参加」については、
①適正な刑事裁判実現のための諸原則に抵触せず
②国民において「苦役」とされないような各種措置が同時に法定され
③被告人の上訴の利益保護を図ったうえで通常裁判所の審理として
なされる場合には、その制度の根幹の方針(参審制とするか陪審制とするか)を含めた、諸政策は立法に任される性質のものであり、これらが認められる限度においては、違憲となる余地を生じない。

2013年8月27日

ニュース1 日テレ社員強制わいせつ事件不起訴①(刑法的視点)

    「強制わいせつ容疑で逮捕の日テレ社員を不起訴」 | テレ朝NEWS 
http://news.tv-asahi.co.jp/news_society/articles/000011291.html
-----------------------------------以下、引用------------------------------------

 東京都内のホテルで19歳の少女(乙)に無理やりキスをしたなどとして逮捕され、処分保留となっていた日本テレビの男性社員(甲)について、東京地検は不起訴処分にしました。
 日本テレビの男性社員(46)は5日、港区のホテルの部屋で、当時19歳の少女を押し倒して無理やりキスをしたり、胸を触ったとして逮捕・送検されました。男性社員は、警視庁の取り調べに「キスは相手も納得していた。胸は触っていない」と容疑を否認していました。東京地検は、この男性社員を21日に処分保留のまま釈放していましたが、26日付で不起訴処分としました。被害届を提出していた少女側と示談が成立したものとみられます。 
※引用内、(斜体) は筆者によるもの
 -----------------------------------引用終わり------------------------------------

 上に示したニュース記事は、強制わいせつの容疑で逮捕されていたテレビ局勤務の男性が、不起訴処分となったというものです。
 男性にとっては大変恐るべき事態のひとつに挙げられる、性犯罪の嫌疑を題材に、刑事法分野の関連する事項について検討していきましょう。

1.刑法的視点
(1)俯瞰
 本件事案は、甲が乙に対し強制的にわいせつな行為をしたとして逮捕されたものであり、嫌疑の対象となる事実が該当すると思われる条文は、刑法第176条となります。
 同条は、「十三歳以上の男女に対し、暴行又は脅迫を用いてわいせつな行為をした者は、六月以上十年以下の懲役に処する。」としており、構成要件を分解してみると、
①十三歳以上の男女(客体)
②暴行又は脅迫を用い(手段)
③わいせつな行為をした(結果)
となるので、以下、それぞれについて検討してみます。

(2)①客体について
 客体は、「十三歳以上の男女」です。同条は、後段に「十三歳未満の男女に対し」とする規定も置いていますが、本件の客体である乙は19歳なので、ここでは後段についての検討は割愛します。(ちなみに、十三歳未満に対しては、②の手段による制限が付されていないため、たとい同意があったとしても同罪を構成するとしています)
 年齢の計算については、年齢計算ニ関スル法律(明治35年12月2日法律第50号)が定めるところにしたがっています。本件においては、客体の年齢の認識に錯誤(「13歳以下だと思った」などという勘違い)があったとの主張はないため、特に問題とはなりません。

(3)②手段について
 次に、手段(態様)について考えて見ましょう。本件の客体は19歳なので、176条1項前段に該当するか否かについてみていくことになります。
 同項前段は、「暴行又は脅迫」を手段とした行為を処罰の対象としています。
 では、ここでいう「暴行」あるいは「脅迫」とはどのようなもののことをいうのでしょうか。
 「暴行」や「脅迫」といった概念は、実はこの条文だけではなく、刑法典(いわゆる刑法といわれる条文群)においてのみでも、暴行罪(208条)や脅迫罪(222条)・公務執行妨害罪(95条)・加重逃走罪(98条)・騒乱罪(106条)・強姦罪(177条)・強盗罪(235条)などがあります。
 実は、これらの条文で用いられている「暴行」や「脅迫」は、必ずしも同じ定義の下で基準として機能するものではなく、広狭があるといわれています。
 どのような広狭があるかについては、論者によってまったく異なるので、一様に「これが暴行・脅迫概念の広狭だ!」とはいえませんが、広狭についてまとめた文書も提示しておきますので参照してみてください。

 参照文書にしたがって、強制わいせつ罪をみると、いわゆる最狭義の「暴行又は脅迫」であるといえます。
 同文書の脚注にも示しましたが、強制わいせつ罪が最狭義の「暴行又は脅迫」である所以は、その罪が認められることよって与えられる社会的サンクション(社会において「変態」というレッテルが貼られて、通常生活が送れなくなる)や法定刑(法律が定める罪の軽重)の重さ―懲役六月以上十年以下―にあり、罪の認定も慎重です。
 本件も多分に漏れず、立件をしない、という判断を下した根底には、このような理解があったから、といえるのではないのでしょうか。
 
(4)③結果について
 結果として「わいせつ」性を有する行為に至ったことが三つ目の要件となります。
 ある行為が、「わいせつ」なものであったか否かについて検討するときに、よく引用される判例があります。
 「四畳半襖の下張」事件判決(最判昭和55.11.28 刑集34巻6号433頁)です。
 この判例は、「チャタレイ夫人の恋人」事件(最大判昭和32.3.13 刑集11巻3号997頁)や「悪徳の栄え」事件(最大判昭和44..10.15 刑集23巻10号1239頁)という、表現の自由についての重要な判決の総まとめみたいな基準を定立した判例と評価されています。
 
----------------------------以下、上記判例の引用----------------------------------
 文書のわいせつ性の判断にあたつては、当該文書の性に関する露骨で詳細な描写叙述の程度とその手法、右描写叙述の文書全体に占める比重、文書に表現された思想等と右描写叙述との関連性、文書の構成や展開、さらには芸術性・思想性等による性的刺激の緩和の程度、これらの観点から該文書を全体としてみたときに、主として、読者の好色的興味にうつたえるものと認められるか否かなどの諸点を検討することが必要であり、これらの事情を総合し、その時代の健全な社会通念に照らして、それが「徒らに性欲を興奮又は刺激せしめ、かつ、普通人の正常な性的羞恥心を害し、善良な性的道義観念に反するもの」(前掲最高裁昭和三二年三月一三日大法廷判決参照)といえるか否かを決すべきである。
傍線は筆者によるもの 
 -----------------------------------引用終わり------------------------------------

 この判例は、文書に対するわいせつ性についての価値判断を定立したものであるといわれていますが、傍線部に注目すると、このような理解は、文書であらずとも、単なる人の行為であっても適用できるものではないのでしょうか。
 具体的に、ある行為が「わいせつ」であったか否かを検討するときにもこの基準を適用できるというのならば、犯罪の主体である被疑者(被告人)の主観において、嫌疑のかかる行為を専ら性欲を満足させるためであったと認識しており、かつ一般人からして性的な行為に外ならないと判断されるようなものであった場合にのみ「わいせつ」な行為であったと評価されることになるわけです。
 では、本件は果たしてこの要件を満たしていたといえるのでしょうか?
 ニュース記事からは、甲が乙に無理やりキスをした、ということが読み取れますが、果たして、本当にキス自体が強制的に行われたものであったのか(任意性の否定・強制性の認定)、様々な捜査をしてみなければ分からないでしょう。

 この点は、検察官も真偽が不明だったためか、処分保留という宙ぶらりんな状態にしておいて、捜査が煮詰まるのを待っていたわけですが、示談が成立してしまったために、不起訴処分としたのではないでしょうか。

(5)まとめ
 本稿では、まず刑法における諸々の関連する論点を挙げて、本件がどういうものであったのかを検討しました。
 このニュース記事については、実体法的観点からだけではなく、手続法的観点からも検討することが可能なのですが、あまりも稿が長引くのはよろしくないと判断したため、刑法に関する部分のみを俯瞰しました。
 また後ほど(次稿)、今度は手続法的観点からの俯瞰をしてみようと思いますので、どうぞお付き合いください。

2013年8月21日

閑話①

あれだな、気になるニュースとか、法的分析をしたくなるような事項があったらこっちに投稿するようにしようかな。
TwitterでTLを占拠するのは気が引けるし、なかなか140字前後で分節しつつ記述するのは、多少の無理があるし。
もっとも、このブロクは勉強の糧にするために作ったにもかかわらず、全く役に立っていないことに鑑みると、有効活用の方法を考えなければいけないと思ってたところだし。

憲法1-2.わが国における憲法適合性審査基準の変遷(「二重の基準」採用前まで)

【科目】
憲法

【概要】
憲法適合性審査基準についての検討(2)

【詳説】
2.所謂「二重の基準」論までの変遷
(1) 序論
 わが国の憲法適合性審査の変遷を辿る上で、不可欠な要素として挙げられる「二重の基準(Double Standard)」は、アメリカの判例法理であると説明されることが多いが、アメリカにおけるものと、日本の憲法学上の通説として捉えられているそれとは、異同が生じている。
 これは、法解釈自体が各国の、或いは裁判官各自の価値判断に任されており、必ずしもそれぞれの間に連関を見出すことができないためである。
 本稿においては、理解の混乱を避けるため、日本におけるそれを主に説明するにとどめ、アメリカ判例法理における議論が、わが国の裁判例に影響を与えたものに関してのみ適宜紹介することとする。
(2) 前提
 では、わが国における「二重の基準」について検討していくが、ここで注意していただきたい点として、①わが国の通説的見解を形成したといわれる芦部博士における「二重の基準」と、最高裁が拠っていると芦部博士が分析する「二重の基準」は、その適合性審査の過程において用いられる判断基準が異なること、②必ずしもわが国の最高裁がすべての場合において「二重の基準」を採用しているとはいえないこと、が挙げられるため、これらを念頭に入れるべきである。
(3) 本論―判例における「二重の基準」採用までの理解
 まず始めに、最高裁が拠っているとされる「二重の基準」について検討する。
 わが国における憲法適合性審査は、「公共の福祉」概念と密接な関係を有すると理解されており、現に「公共の福祉」を人権章典の制約上、如何なる位置づけにするかによって、判断準則を変遷させてきたといわれている。
 まず、日本国憲法成立初期(1945~1960年前後)における、最高裁の「公共の福祉」に対する理解は、外在的制約説であったと解されている。
 外在的制約説とは、人権章典に掲載されている基本権(基本的人権)については、すべて「公共の福祉」を及ぼすことができると解し、憲法に明文化されている「公共の福祉」なる文言については、人権条項の欄に記載があるが、人権の埒外にあると解するものである。
 したがって、原則―制約可能・例外―不可侵、という形で人権章典が制定されていた、と解するのである。
 この説は、明治憲法が適用されていた戦前における「法律の留保」原則と同旨の理解に基づいているとされており、国家機関による安易な人権制約を惹起させてしまう、という批判的見解が主張されていた。
 かような批判を乗り越えるべく、最高裁は、それまでの判例において理由としてきて述べてきた、外在的制約説に基づく、安易な「公共の福祉」論の適用を改め、「公共の福祉」自体、人権章典の一部を構成する原理として、その適用は自ずと基本権による制約を受ける、という内在的制約説へ変更していったといわれている。
 この点、参考となる判例として、全逓東京中郵事件(最大判昭和41.10.26 刑集20-8-901)が挙げられ、その理由において、「国民生活全体の利益の保障という見地からの制約を当然の内在的制約として内包している」と判示した。
 内在的制約説は、公共の福祉を、人権相互の矛盾・衝突を避けるための実質的衡平達成方法であると解し、かような方法は、憲法典に明記されておらずとも、法の一般的な要請から論理必然的に内在するものであるとする。
 実質的衡平を図るための規定であるが故、その具体的な達成方法は、各人権条項の保護の目的に応じて個別的に検討されることが要求され、その判断基準についての共通項としては、「必要最小限度(自由権保障規定について)」,「必要な限度(自由権保護のために設けられた社会権保障規定について)」といった、抽象的な文言が設定されるにとどまった。
 そのため、共通項たる抽象的文言の曖昧性は法的安定を欠くものであり、憲法適合性審査基準としては不相応であるという批判が加えられるようになり、またもや論理の修正が必要となった。
 そこで、最高裁は、憲法における保障につき序列を与えた上でその序列に従って、適合性審査の基準を分化させる「二重の基準」を採用した、といわれている。
 もっとも、最高裁自身が「二重の基準」による審査をする、と明言したものではないため、判例が出された後にその理由を検討するうえで学説において主張された、と理解するのが妥当であろう。
 こうして、日本における学説による判例分析の一として「二重の基準」を検討する土壌が構築されたのである。
(5)小括
 以上、戦後(すなわち、日本国憲法施行後・最高裁判所発足後)における「二重の基準」論が展開されるまでを辿ってきたが、稿内でも幾たびか、「判例は、必ずしも二重の基準に基づく適合性審査をしているとは限らない」旨を記述しているが、あくまで、「二重の基準」は、法学者が戦後の判例を総体として理解する際の便宜を図るために設定したものであり、特に裁判所が「二重の基準」を採用するということを言及したわけではない。
 したがって、最高裁判例を別の視点から再構成することも可能であり、現に、(人権章典の分野に限られるが)ドイツ判例法理的な解釈として紹介される「三段階審査基準」なるものによる分析もなされている。
 そのため、「如何なる審査基準によることが人権保護にとっての最善解となるか」ではなく、「事後的な判例評価の手段として如何なる基準であると設定すべきか、あるいはそこから帰結する基本権の最大限の保護に、より資するであろう基準は如何なるものか」という視座により、憲法適合性審査基準を理解することが、本稿を理解する一助になろうかと思われる。
 歴史としての日本国憲法学は、他の法学分野よりも時的経過がないため、精緻な分析がなされていないという現状があるのが事実であり、更なる発展には、様々な角度からの分析を要することになろう。
 よって、本稿は日本国憲法学における判例・学説評価をはじめとした、俯瞰的観測による理論分析を可能とするために利用されることが望ましいといえることを付言し、第2節の結びとする。

【まとめ】
 わが国の憲法の体系を理解するために、これまでの最高裁が採用してきたと理解されている学説を俯瞰した。
 詳細については、【詳説】を参照のこと。

2013年8月12日

憲法1-1.憲法適合性審査基準のあらまし

【科目】憲法

【概要】憲法適合性審査基準についての検討(1)

【詳説】
1.憲法適合性審査基準のあらまし
(1)
 わが国における憲法適合性審査基準は、法令あるいはその適用が憲法適合性の点で問題となった各種判例の帰納的分析により導出された、講学上のものであり、事案の性質に応じた問題解決に当たり拠るべき判断のメルクマールとなっている。
 ある法令ないしその適用が憲法に適合するか否かについての判断は、原則として、各事件における事実及び証拠によって区々となるものであり、必ずしも類似の全事例で適用されるべき一般的な基準が立てられないのが、付随的審査に基づく憲法審査の限界である。
(2)
 わが国の現在の憲法学における、憲法適合性審査基準についての帰納的分析の成果として挙げられる通説的な見解は、所謂「二重の基準(Double Standard)」と呼ばれるものである。
 この基準については、次項において詳述するが、現行日本国憲法の解釈には、その草案が英米法、殊にアメリカ判例理論に大きく影響を受けたものとなっていることから、アメリカの判例基準が用いられることになったといわれている。
 "Double Standard"と”二重の基準”は、必ずしも同一のものと解することはできないが、根底となる理論構成については、共通する点が多い。これらの共通点については、別稿において検討することにするが、共通点があることには留意すべきである。
(3)
 そのため、多くの憲法学者はアメリカ合衆国憲法の体系的理解及び連邦最高裁判所(Supreme Court of the United States 、以下SCOTUS)の判例解釈を通じて、わが国の憲法論を構成するよう試みた。
 その中で、わが国の憲法学における通説的見解を構成したといわれているのが、芦部信喜博士である。
 彼は、戦前の大日本帝国憲法(明治憲法)下における憲法学の通説といわれる見解を主張した宮澤俊義氏に師事し、師の見解を承継した上で自説を構成したといわれている。
(4)
 本稿においては、
①まず現行日本国憲法下における憲法適合性審査基準についての通説的見解である「二重の基準」論を(ⅰ)判例に立脚した分析,(ⅱ)芦部博士の主張する見解に立脚した分析に分けて検討する。
②そののち、現在わが国の憲法学者において有力に主張されている審査基準である「三段階審査基準」に焦点を当て、かような基準がいかにして生まれ、わが国において主張されるに至ったか、そして、通説的見解たる「二重の基準」との比較を通じて、その利点・欠点を詳らかにする。
③最後に、近時の判例を上の2つの基準に照らして検討することで、それぞれの基準の判断の差異を確認する。
という、3つの作業を通じて、現在におけるわが国の憲法学の実態を明らかにしていくこととする。


【まとめ】
 わが国における憲法適合性審査基準を理解するため、①所謂「芦部説」及び同説に基づく判例の検討、②近時有力に主張されているところの「三段階審査基準」にフォーカスをあて、その沿革を確認・現行制度に適合するかを検討、③「二重の基準」と「三段階審査基準」の異同を明らかにすること、を通じてわが国の憲法学における議論の実態を詳述していく。